ドラマ・大奥の御台様に涙

時々、記憶を一切消したいと思う時がある。自分の育った環境、家族、経歴、そういったものに関する記憶だ。

 

生い立ちが不幸か不幸でないかといったら、決して不幸ではないと言えるだろうが、子供の頃から長いこと「理解されない、満たされない、味方がいない、寂しい」って思いに苛まれて来た。他のことはまあ人並みに満たされていたけれど、これって「不幸とは言ってはいけない」のだろうか。

 

話はかわるが、よしながふみさん原作のドラマ「大奥」の医療編が始まった。前シーズンは「妊娠・出産の強要」がとにかく毎回辛くて、救いがあってもほんの束の間、私は毎回号泣していた(でも女性達みんなカッコ良かったよな!特に最高だったのは片桐はいりさん)。今シーズンは生殖がメインではないのと、少しずつ赤面撲滅への光明が見え始めていることで、今のところ号泣まではしないで済んでいる。

 

…が、御台様の言葉でやっぱり号泣してしまった。青沼の講義を受ける前までは心の中が虚しさでいっぱいだったけれど、仲間と共に学び、高い志も持てたことで生きている実感や喜びをめいっぱい感じられるようになった御台様。

 

そうだ、そうなんだよね。「いつかこれを成し遂げてやるんだ!」という目標は生きる活力を与えてくれるよな。それに同じ目標に向かって共に切磋琢磨しあう仲間がいたら尚更頑張れる。

 

私自身も、私も大人になった今はそういう経験を多少はしたことがあるが、やっぱり子供の頃からそういう経験をしてみたかったな、と思う。なぜ出来なかったかというと、私が他人にほとんど心を開けなかったのと、自分自身何がしたいかがいつも分からなかったからだ。

 

私はいつも「世間でいう正解」に自分を合わせなければならない、そうしなければ大変なことになるという恐怖に駆り立てられてしたくもない努力をしている人間だった。きっと、少しだけでも気持ちに余裕があれば「そんな事しなくていいんだ」って気づけたかもしれない。でもそんな状態の子供が自力で気づくなんて難しいんだよ。だから随分と人生の時間の無駄遣いをしてしまったと、後悔している。

 

それでもさ、何歳になってからでも「これがやりたい!」と思えるものや良い仲間に出会えて、充実した時間を過ごしていたら、その間だけはしんどかった記憶が自分の中から消えてるんだよな。人が真に救われる、自由になれる方法があるとしたら、没頭に勝るものはないと思う。

 

それができるものを見つけるのは簡単なようでいて簡単ではないけど、でも意外とあっさりと見つかったりするのかもな。

海堂尊「コロナ」シリーズ

前に「本当のことを言われると人は怒る」という言い方はズルい、と書いた。その後はすっかりそんな事は忘れていたのだけれど、海堂尊さんの本を読んでいたらこれが正解、という文を見つけた。それは「人が怒るのは、全くのデタラメを言われた時か、本音を言い当てられた時のどちらか」というものだ。

 

そうだよ、それそれ!と何度も頷いてしまった。「デタラメ」の方を省いちゃダメなんだ。むしろ後ろ暗いところのない人にとっては「デタラメ」に対して怒るときの方が多いんじゃないか?これでモヤモヤがようやく晴れた。スッキリした気分だ。

 

それにしても、簡単な言葉で表せるはずの内容を、ダラダラとしか書けない自分の言語化能力のなさには落ち込んでしまうな。海堂尊さんの文章は本当にスッキリ爽快で、ここだ!という一点を正確に突き刺してくるような鋭さがある。それだけでなく、登場人物たちは時々実在の人物以上に自分の心の中に強い印象を残し、たまに思い出しては切なくなったりしてしまう。

 

と、海堂尊ファンである私だけれど、実は「コロナ」シリーズが刊行されていたことをつい最近まで全く知らなかった。本屋さんにはちょくちょく行っていたのに、気づけなかったのは痛恨の極みだ。

 

「コロナ」シリーズで書かれていることは、フィクションも交えているが大部分は事実である。

 

私は確か、ダイヤモンド・プリンセス号の騒動の頃にTwitterを始めた記憶がある。岩田医師が乗り込んだ動画も見た。その後、いわゆる「イクラ」という人達が「あの人はホラ、いつもああだから」みたいなことを書いていて、私はどちらも信用できないなと感じた。

 

バブバブいってる医師とか手を洗う医師とかがやたらと馴れ合っている上、自分の違う主張の人間を小馬鹿にするような態度を取っていて、こういう人間は大嫌いだと思った。PCR検査抑制もそうだ。毎日のように「PCR検査やってくれ」とテレビで訴えていた女性(役職は忘れた)のことをイクラはひどくこき下ろしていたっけ。

 

「天使にラブ・ソングを」かなんかの動画に字幕をつけて「PCR検査はリヴァイ班並の精鋭しかできないんだよ」って言ってる動画も見た。数学教師が感度と特異度の計算のやり方を説明して、結論としてPCR検査は信頼できないと言ってる動画も見た。その時にはもう私は「何が正しいのかわからない」と思っていたし「学問の素養がないと生きていくには危険が多すぎる」とも感じていた。

 

海堂尊さんの本だけで「これが本当のことだ」と信じることも盲信につながる危険な態度だが、きちんと根拠が素人にも分かるように示されている部分は読んでおくべきだと思う。そして自分でも調べてみると尚良いだろう。とは言え、「自分で調べる」にはそこそこのレベルの素養が必要なのだ。やっぱり勉強って大事だな。

 

「人は本当のことを言われると怒る」という言葉のズルさ

人は本当のことを言われると怒る、という。まあそりゃあ痛いところを突かれたら怒ったりもするよね。しかしこの言葉のズルいところは「相手が怒ったからこれは本当のことなんだ」と勝手にひっくり返し、主張しやすいところだ。

 

もちろんそれは間違っている。この理屈は怒るか怒らないか、正しいか正しくないかしか基準がないからだ。だいたい、人が皆本当のことを言われた時に必ず怒るわけではない。自分勝手な理屈や屈辱的な言葉に怒りを感じることもあるだろう。

 

返す言葉が見つからない時、私は心の中で自分の世界から相手をシャットアウトしている。怒っていることすら悟られたくないという気持ちもあるが、相手をシャットアウトすると決めると自然とすっきり爽快な気持ちになるのだ。そして相手の吐いた屈辱的な言葉も私には無関係なものとなって消えていく。そして私の内心がどうかなんて知ることもない相手は「やっぱり自分の方が正しいのだ」と満足気だ。

 

自分とは違う考えや感じ方、価値観などは「受け入れるかどうか」ではなく「その存在を認められるかどうか」だ。嫌いなものは嫌いなまま、無駄に衝突しないようにうまく棲み分けていくしかない。私はそっちを攻撃したりしないから、そっちも私のことを一方的にこうだと決めつけ、勝手に評価を下すのをやめてくれ、と思う。君たちは自分が大事だと思うものを大事にすればいい。私は私で全然違うものを大事にしているだけだよ。

好きな服を着る自由

私は女性であるので、女性としての立場から「好きな服を着る自由」ということについて考えてみる。

 

まず痴漢や盗撮などの性犯罪はどんな状況であろうとやってはいけない、というのは大前提だ。相手がどんな場所でどんな格好で何をしていようとやったらダメ。やった方が100%悪い。しかしそれとは全く別の話として、胸や脚などを明らかに自分の意思で露出しているファッションは、それを目にしてしまう方の人間として「勘弁してくれ」と思ってしまう。

 

まず、この社会には他人の胸とかお尻とかをジロジロ見てはいけないというルールがあって、私もそれを当たり前に守っている。しかしそれは性的なパーツは(特別な場合を除いて)過度にアピールしたりしないもの、という共通認識があってこそのルールなんじゃないか?

 

だから昼間普通に街中を歩いているときに、自分から思いっきり胸の谷間を露出したり、胸やお尻のシルエットが丸わかりの格好をしてる人が近くに現れると、ギョッとしてしまうのだ。そして、ギョッとした事自体その人にある程度のストレスをかけてしまっているんだろうなと想像する(他人から向けられた視線や反応に、人は(特に女性は)敏感に気づくものなのだ)。

 

確かにその人には「自分の好きな服を着る」という自由がある。谷間を強調する程度なら犯罪にはならない。しかし私にも「自分の意に反して他人の強調された性的なパーツなどを見ないで済む」という自由、というか権利がある。これが子供だったらなおさら守られなければいけない権利だろう。

 

※胸やお尻が大きくてどんな服を着てもシルエットが顕になってしまう、という人の話はしていない。それとは明確に違う。あくまでも「自分の意思で、見えることが分かっていて強調しているファッション」の話だ。

 

これに対して「性的なものとして見る方がおかしい」という人もいるみたいだが、いやいや性的なものでしょうよ。じゃあ何のために露出、強調してるの?人類が性的な欲求を完全にコントロール出来るようになったらそういう共通認識を持つことも可能になるかもしれないが、少なくとも今は到底無理だと思う。そして「見たくない」と思う人の意思を無視しないで欲しい。それこそ「ゾーニング」して、過度に露出したファッションは18禁エリアに留めておいてくれ。

 

嫌なものを切り捨てると良いものが現れる

先日、入ったばかりのバレーボールサークルを辞めたんだけれど、思いもしなかったところからもっといいサークルがあるよと教えてもらい、今度見学に行くことになった。やっぱり自分が望んでる方向に行くには、嫌なものを「これは要らん!」とばっさり切り捨てることがポイントなんだよなあ。今までの経験からすると。

 

「こっちはイマイチだけど、切る勇気もないからとりあえずキープしてもっと良いの探そ…」みたいなケチ根性で上手く行った試しがないんだよね、私は(笑)。保険をかけてどっちにも行ける状態でいると結局どっちにも行けないんだよ。でも「もう嫌だ!こんなもん絶対に要らんし断固拒否する!!」ってぐらいにブチ切れると心の中で「自分はこっちがいい!」に完全に方向転換できるんだ。

 

そういえば昔、作家だか漫画家の人も言ってた気がするな。最高のアイディアをいつか使うためにずっと取っておくとそれを超えるものは出てこないって。逆に出し惜しみせずにアイディアを全部出していくと、何故かそれを超えるようなすごいものが湧いてくるって。

 

保険をかけるっていうのは(医療とかのはいいんだよ、別に笑)、「ダメだった場合に備える=ダメになる可能性を心の中で許している」って事なんだ。そんなんで上手くいったとしても、まあ大満足の結果にはならないよな。

 

例えば偉業を成し遂げた人、その人の何が凄いかって言ったら能力以前にブレないメンタルが一番凄いんだと思う。目標だけを見てるし、自分の中からそれ以外の可能性を徹底的に排除してるんだよ。そのメンタルが土台にあるから能力も自ずと発揮されるよう導かれていくんだ。ちょっと古いけど「人は心が原動力」ってこういうことなんだよな。

やりたくないことはやらない

やりたくないことはやらない。といっても「そんなワガママ許されるわけないだろ!」って思っちゃうよね。確かに全部はそういう訳にはいかない。でも、普通に断っていいものまで無理してやってる人が多くないか?と、思う。

 

「これは嫌だからやめてください」とストレートにいうことは難しくても、「すみません、私はこれがちょっと苦手なのでこうしてもらえると助かります」みたいに言うことは出来る。でもそれすらせずに(やっちゃいけない、できないと思い込み)、「そんなことをやる人間が非常識!いい加減こっちが怒ってることを分かれ!」みたいにキレちゃう人がいる。

 

やめて、といっても相手が聞き入れてくれない場合もあるだろうけど、少なくとも「自分は言うべきことを言った」って、その件について区切りをつけることは出来るよね。相手に何も言わず、勝手にイライラを募らせて「分からない相手が悪い」と自分を正当化し続けてもどうにもならんのよ。私も以前はそういう人間だったから気持ちはものすごく分かるけど。

 

それに相手が「自分は別に間違ったことはしていない」という認識だったら、周りの人が密かに怒りを燃やしているなんて思いもしないだろう。そもそも「こうであるべき」と自分が考えてる規範は人それぞれ全然違うんだから。

 

どこかで聞いた話だけど、夫婦の片方がいつもコップに飲み残しを放置していることがもう一方にとっては耐え難いことで、常にイライラしてしまう、というようなことは割とあるケースらしい。こういった(あまりよろしくない)癖とか生活習慣の違いとかの中にも「自分の方が正しい!」がいっぱいあるんだよ。

 

そういうのにどうにか折り合いをつけていくのが共同生活であり社会だと思うんだけど、どうしてこんなにも「相手に直接言わずイライラを募らせる」パターンが多いかというと、「言ってダメだったらさっさと見切りをつける」という覚悟みたいなものが持てないからかな、と思う。覚悟っていうか、「そんな相手は要らん」と切り捨てていいと自分に許可を出すことというか。

 

そしてなぜ相手を切り捨てられないかというと「失敗したら終わり」とか「苦労を乗り越えてこそ」みたいなマジで害悪でしかない考え方が日本人の中に染み付いてるからなんだよね。ホント要らんわ、こういうの。日本の諺とか格言とか、一度見直して要らないものは教科書や辞書から削除した方がいいんじゃないの?

 

あ、そうそうバレーボールのサークルはもう辞めた(早)。もう少し様子見しようかと思っていたけど「これは無しだわ」と思うような発言が例の失礼なやつからあり、友達にも「ごめんだけど耐えられない」と言ったところ理解してもらえた(というか友達も憤慨していた)のでそのままあっさり2人で退部。

 

サークル辞めたいと言ったら友達が悲しむかな、と思ったのは私の取り越し苦労だった。やっぱりこういうのも素直に打ち明けるに限るね。

 

 

嫌いなもんは嫌いなんだ

学校とか親からはずーっと「嫌なことからはどこに行っても逃れられないんだから、それに耐えられる人間になれ」というような教育を受けてきた。

 

馬鹿なことに私はそれを間に受けてたんだよ。どんな嫌な人間とも上手くやっていくべき、嫌な環境にも適応すべき、って。その上「女とはこうあるべき」という呪いも全部まともに受け止めて、なりたくないものになり、やりたくないことを全力でやってきた。そうして出来たのは奴隷メンタルの自尊心激低女だよ。

 

自分のことを自分で全く分かってなかったせいで、本当に辛い思いをしてきた。本当は嫌だと思ってるのに、笑顔ですいません、気をつけますね!なんて言ったりしてさ。

 

それと、リアルではあまり言いにくいけど私はマルチタスクが相当に得意な方だ。その上追い込まれるほど俄然やる気になってさらに能力を発揮してしまうタイプなのだ。このタイプでメンタルが奴隷だなんて、搾取する側にとっては理想的だよな(笑)。自分でもなんで理想的な奴隷だったんだろうと思うよ。

 

しかし私はすごくすごく苦しくなって、何でこんなに苦しいんだろう、どいつもこいつも大嫌い、憎い!という状態になってから、自分が心の底で思ってることに気がついた。

 

明らかに私よりも能力が低いのに偉そうに指図する奴はなんなんだ?

何で私はこんな奴より自分を下に見ていたんだ?

嫌なことにも耐えて頑張れば相手も変わるとなぜか思い込んでたけど、ますます増長するばかりじゃないか?

私は本当はこいつらの事を心底バカだと軽蔑してるのに何で好かれようとなんてしていたんだ?

 

色んな気持ちがバーーっと出てきた。こういうのって一度出てきてしまったらもう止まらないんだ。

 

嫌なことにも耐えられる人間になれ、なんて大嘘だよ。嫌な人間とも上手く付き合えるようになれ、も大嘘だ。嫌なことなんて何一つ、断固としてやる必要はないんだ(その嫌なこと、の定義には気をつけなければいけないが)。

 

世の中に出て散々苦労してから気づくんだ。「自分を大事にしている人間は見切りをつけるのがめちゃくちゃ早い」って。自分は本当に馬鹿だったよな、大嘘をまともに信じちゃってさ。

 

そんなこんなを乗り越えて出来上がった今の私のルールはこうだ。

・能力があろうが態度が悪い奴はみんなロクでなし、付き合う必要なし

・言葉選びがダメなだけで中身はちゃんと良い人もいるが、言葉選びがダメなところは確実にマイナスであることを忘れない

・たとえ仕事や勉強に関する能力が優れていなくても人間的に優れている人には敬意を払うべし

・フィーリングで合わない、と感じた人間とは付き合わない

・嫌な奴がまともな人間に変わるのは物語の中だけ、誠意のあるまともな人は初めからそうである

・相手がどんなに素晴らしく尊敬出来る人でも「自分はそれよりも下の人間だ」とは絶対に考えない

 

逆説的だが、嫌な奴を「こいつ大っ嫌い」と遠慮なく心で感じていると、不思議とそいつがどうでもいい存在に思えてくる。取るに足らない目に見えないレベルのゴミみたいなもんだって感じる。

 

嫌な人間とも上手く付き合えるってのは、実はこういうことかもな。人は目に見えないゴミをわざわざ意識することなんてないのだから。